患者仲間の体験記(vol.2) ~ひろびろさん~
昨年、メルマガでコラムをご担当いただいたひろびろさんの記事を一気読みでお届けします。
皆さん、こんにちは。
今回よりゲストコラムを担当します“ひろびろ”と申します。
50代女性で、現在は肺がんステージⅣ、ALK遺伝子変異陽性により、分子標的薬アレセンサを服用中です。今のところは治療成績も良く、日常生活にはほぼ支障はありません。でも、ここに至るまでの肺がん患者生活は、山あり谷あり、ぬかるみありと、本当に様々な事がありました。今回、自分のがん体験を語る機会を頂いてとても感謝しています。暫くお付き合いの程、よろしくお願いいたします。
なお、ここに書かれているのはあくまでも私個人の体験であり、肺がん患者全般に当てはまるものではないという事を申し添えます。
私が肺がん?嘘でしょ?
私が最初に肺がんと診断されたのは、2013年2月末でした。胸部レントゲン→CT→気管支鏡→PET-CTと検査を経て、腫瘍マーカーの結果により下った診断は、「原発性右下葉肺腺癌(pT3N2M0 stageⅢA)」、状態としては、右肺下葉に約1.5㎝、1.6㎝の腫瘍が2個、(どちらかが原発、どちらかが肺内転移)、リンパ節転移ありで、「手術できるかどうかギリギリの進展度」と呼吸器内科主治医から病状説明を受けました。
肺がんが見つかったきっかけは、本当に「たまたま」としか言い様のないもので、見つけてくれたかかりつけ病院の先生にはどれだけ感謝してもしきれません。その病院には、甲状腺機能低下症と糖尿病の治療で月に一度通っていて、先生から毎年1度は「心電図と肺レントゲンを撮ろう」と言われていたのですが、心電図はともかく、肺レントゲンは地元の肺がん集団検診を受けているからと断っていました。
2012年の12月の診察時にも同様に勧められ、同年10月の集団検診の結果は「異状無し」だったので例年通り断ったのですが、何故か翌月の2013年1月の診察時に「じゃ、今からレントゲン撮るから」と言われました。内心、「えー、先月断ったのにー」とイラっとしましたが、そこは一応大人の対応でレントゲン検査を受け、診察室に入ったところ、今まで見た事の無い難しい表情でレントゲン写真を見つめている先生が。そして、とても言い難そうに「うーん、これは余り良くない事を言うけど、肺に陰があるように見える。肺がんかもしれないから、大きな病院でちゃんと検査する方がいい」と、私に告げられたのです。
「え、陰ってどういう事?肺がん?!嘘でしょ!!」と、頭の中はグルグル、動悸が激しくなり、血液が逆流するような感覚に襲われました。
「はい…はい…」としか言葉が出てこず、先生の言われる事も耳から零れ落ちる様な感じでしたが、かろうじて、「甲状腺機能低下症で元々通院していた総合病院の呼吸器内科の部長へ紹介状を書く」と言われた事には同意しました。私自身、自分が通っていたことがある病院の方が安心出来るし、がん診療連携拠点病院でもあるので、異存はありませんでした。
後から、「何故あの時先生はレントゲンを撮ろうとしたんだろう?私の何か外見に現れていたのかしら?」としみじみ思いました(後日、先生にその事を訊いてみた所、「いや、別に何も見えなかったよ」とは言われましたが、ホントかな?)。
確定診断
こうして紹介先の総合病院に行ったのは2013年1月中旬。最初のCTで「腫瘍は認められ、エキノコックスの様な感染症の可能性が高いが、肺癌の可能性も十分にあるので、検査を進める」との所見が出たのに従い、上記の検査を次々と受けていきましたが、その間にもどんどん日は過ぎていくので、もし本当に肺がんなら、こうしていく内に手遅れになっていくのではないのか?という恐怖が常にありました。
気管支鏡も、一度目は異常部の細胞が採取出来なかったという事で、辛くてもう二度とやりたくないと思った気管支鏡を再度しなければいけなくなり、主治医に「二回目の検査費も私が出さないといけないんですか?!」とつい言ってみたり。確定診断が出たときは、「あー、やっぱり肺がんなんですねー」と、漸く結果が出た事で逆に安心したくらいでした。
かかりつけ医から「肺に陰がある」と聞かされた時の衝撃に比べたら、ある程度の覚悟が出来ていたのかもしれません。が、「あんた一人で結果を聞くと思うと心配だから」と無理矢理付いてきた実母が、肺がんの診断を聞いて泣いてしまい、心が申し訳無さで一杯になりました。
それからは、「何故肺がん?!喫煙経験も無いのに、どうして??そもそも何の自覚症状もないのに!!」と激しい憤りを覚え、「肺がんって治らないんだよね、もう私はそんなに長く生きられないの?両親より先に死んじゃうの?」と悲しみが渦巻きましたが、私が泣くと母が一層辛くなるだろうと思い、何とか涙を堪えて、「治療方針としては、なんとか手術の方向で」という主治医の勧めに従い、内科から呼吸器外科へ紹介状を書いてもらいました。
夫は仕事でしたが「結果が出たらとにかく携帯に電話してこい」と言っていたので、掛けたところ、「そうか…」くらいしか答えず、やはりかなり動揺していたと思います。呼吸器外科の主治医の治療方針説明には、夫も仕事を休んで同席しました。
呼吸器外科医の主治医は「化学療法や放射線治療という選択肢もあるけれど、ギリギリの状態でも今ならまだ手術が可能だから、手術をするのがベストの選択だと思う。ただ、リンパ節転移があるので、術後の化学療法は必要になる」と説明し、私自身も、切った方が気持ち的にスッキリすると思い、夫も同意したので、その場で「手術する」と答えました。その時のタイミングで最も早く手術できる日=2013年3月13日が手術日に決まりました。
開胸手術
今年の3月で、肺がんの初発の手術からちょうど丸5年が経ちました。術後5年を生き延びる事が出来て、本当に感慨深いです。当時は、5年後のことなどとても想像できず、それまで生きていられるとも到底思えませんでした。今こうして日々を過ごせるのも、治療に当たってくれた主治医の先生方や看護師さん達、家族のサポートや友人たちの励ましの力だと改めて実感しています。
入院の日は2013年3月11日、2年前に東日本大震災が起こった日です。昼食には、大震災を追悼するメッセージカードが添えられていました。
そして迎えた手術当日。やはり緊張と恐怖でドキドキが止まらず、病室で見送ってくれた姑と義理の伯母も涙目、私も涙ぐみながら「行ってきます」と言うのが精一杯でした。手術室には竹内まりやの曲が流れていました。特に私がリクエストした訳ではないのですが、聴き覚えのあるフレーズは安心感を与えてくれた気がします。
手術後、ICUで夫、実母、姑と対面した時はまだ頭がぼぅっとした状態でしたが、「よく頑張ったね」と声をかけられて、漸く「帰ってこれたんだなー」と思いました。実父は当時軽い認知症を患っていましたが、術後の執刀医の説明には同席していたと、後から実母から教えて貰いました。切除された肺を見て顔をしかめていたそうです。結局、当初の診立てより癌が拡がっていたと云う事で、右肺の下葉と中葉を切除、縦隔リンパ節郭清を受けました。背中の手術創は15㎝くらいあります。
入院中は、胸の痛みにずっと苦しめられました。麻薬を早々に使い切ってしまい、痛み止めの内服薬は余り効かず、この先も変わらないかもと暗澹たる気分でした。入院期間は丁度2週間でしたが、気持ち的には痛みが残ったまま退院したくなかったです。
退院後は帰宅せず、夫の実家にお世話になりました。実は私の入院中から、夫は実家で過ごしていました。私も家事をこなす気力も無かったので、大変有難かったです。こうして、少しずつ「元の生活」に戻る日々が始まりました。
仲間ができた!
2013年4月中旬より、通院による予防的抗がん剤治療が始まりました。1週目はジェムザールとカルボプラチン、2週目はジェムザールのみ、3週目は休み、の3週間で1クールを計4クールのスケジュールでしたが、初回の治療で白血球の数値がかなり下がってしまい、翌週の治療が延期になってしまいました。
最初の1クールは副作用も強く、家では殆ど横になっていたので、姑にはかなり気を遣わせたと思います。私も、身の周りの事を姑に世話になるのが有難くもあり、それ以上に申し訳なさの方が強くなって、1ヶ月くらいで自宅に戻りました。自分で出来る事が少しずつ増えていくのが嬉しかったです。
通院中、外来で診察待ちの時間に眺めていた掲示物の中に、いつも気になるポスターがありました。それは、その病院の「がん患者サロン」の案内で、「ひとりで悩まず、同じがんの仲間と思いを語り合って、気持ちを軽くしてみませんか?」と呼び掛けていました。気にはなるものの、そんな場所で何を話せば良いのか判らないし、参加するだけの精神的な余裕もなく、眺めるだけで終わっていたのですが…。
抗がん剤治療が漸く終わる頃、思い切ってサロンに参加し。同じ肺がん患者の人と出会えたのです。私より20歳ほど年上の方ですが、数か月単位の余命宣告を受けてから色々な治療を試し、7年くらい生き延びておられます。私にとって本当に励みになる存在で、またその方からも、サロンで初めて肺がん患者と出会えたと喜んでもらえました。がん種を問わないサロンなので、色々な方が参加されていますが、やはり同じ肺がんの方とお話するのがより共感を持てます。今の肺がん患者会を立ち上げたのは、このサロンに参加した事が大きなきっかけになったのは間違いないと思います。
そのサロンを担当されている看護師さんから、国立がん研究センターの患者・市民パネルへの応募を勧められたのは、翌年の2014年の晩秋でした。正直、パネルの存在を全く知らなかったのですが、ホームページで活動内容を確認し、がん患者の立場で社会貢献できる事が素晴らしいと思いました。無事に選考に通り、パネルメンバーになったのが2015年4月。
メッシーさんとのご縁が出来て今こうしてメールマガジンの原稿を書いているのも、サロンに参加していなかったら有り得なかった訳で、私の第二の人生の大きなターニングポイントになりました。
社会復帰と社会貢献
話は少し遡りますが、2013年7月に予防的抗がん剤治療が終了し、経過観察の状態になったところで、再就職する事が一番の目標になりました。最初の診断時は雇用保険の失業給付の待機期間中でしたが、抗がん剤治療中は積極的な就職活動をするのは体力的にも気力的にも難しく、結局、失業認定に最低限の就職活動のみで失業給付金を受け取りました。
元々働いていた時はパートで、それほど多い収入では無かったですが、無職の状態では家計も厳しく、また、家に居ると病気の事ばかり考えてしまうので、副作用が収まる10月には働こうと目標を立てました。県のがん相談支援センターに相談したところ、「何が出来るか出来ないか、自分の都合を最優先で探せば良い、くれぐれも無理は禁物」とアドバイスを頂きました。
ハローワークで「肺がん体験者でも働けそうな所」を探し、目標通り10月に、総合病院の薬剤部でのピッキングの仕事に就く事が出来ました。勤務初日、車で職場に向かっている時、「もう病人じゃないんだ」と云う思いが湧いてきました。社会復帰を果たせた喜びは本当に大きかったです。 相談支援センターに就職の報告に行ったところ、県ピアサポーター養成講座の受講を勧められました。半年間の講座修了後、ピアサポーターとしてセンターの交流サロンや県内の病院で活動すると云うものです。通院先のがんサロンで仲間が出来て、「痛みを共有出来る場」の大切さは実感していましたし、社会復帰できた事で「恩返し」の気持ちもあり、養成講座を受講しました。そして翌2014年4月から、ピアサポーターとして活動を始めて今に至っています。未だに「傾聴」は難しく、活動の度に反省してばかりですが、少しでも社会貢献できる事が励みにもなっています。
その後の定期検査もずっと異状無しで、このまま順調に完解に向かっていけるかなと思っていましたが、術後から3年経った2016年3月、PET検査で縦隔リンパ節に再発、右腸骨と両腎に転移が見つかったのでした…。
再発転移からのスタート
2016年3月、PET検査で縦隔リンパ節に再発、右腸骨と両腎に転移が見つかったのですが、当初は主治医が両腎のがんを肺からの転移と認めず、泌尿器科の先生と見解の相違が起こってしまいました。泌尿器科では、「両方の腎臓で一度にがんが見つかった場合は、ほぼ転移性」としていて、患部もかなり奥の部分なので針生検をしても届かないだろうと、エコー検査のみ行ったのですが、主治医は「今のままでは自分も納得できないので、7月にもう一度腎臓の生検をして、それで見極めたい」と主張し、先ずは右腸骨への放射線治療を行いました。
再発した事は、いつかは来るかもと覚悟していたつもりでしたが、やはり相当の衝撃でした。腎臓を放置しているのも怖く、精神的にかなり辛かったです。当時の仕事は身体に負担が掛かっており、少ない人数での業務なのに私が休む事で同僚に迷惑をかけるのも気兼ねで、結局仕事を辞める事にしました。働かなくなったことで、一層病気のことばかり考える様になってしまい、命の期限が迫っているなら、何か自分が生きた証を残したいと思う様になってきました。患者・市民パネルの仲間が、患者会等で活躍している事を思い浮かべ、「肺がんの患者会を立ち上げたい!」と思い立つのですが、如何せん「自分の為に」では同士が見つかる訳がなく、悶々とするばかり…。
結局7月になっても腎臓の生検は出来ず、泌尿器科の見解のまま、両腎は肺からの転移との診断が下りました。抗がん剤治療をサードラインまで示されるも、それ以降はもう治療が出来ないのかと気分はどん底でしたが、手術で切除した患部がまだ保存されている事が判り、遺伝子変異の検査に出される事になりました。
そして…まさに抗がん剤治療の初日のに、ALK遺伝子変異陽性が判明したのです!
急遽抗がん剤治療は中止、その日から分子標的薬を飲み始めました。高額な薬を効くか判らない状態で飲むのは、金銭的にも精神的にも本当に厳しかったですが、12月に効いている事が判り、文字通り目の前が開けた心地でした。
分子標的薬のお蔭で自分が生かされている事で、今までは「自分の為」に患者会を立ち上げたいと思っていたのが、「自分の経験が、同じ肺がんで悩んでいる誰かの希望になるかもしれない」と、「他者の為に」と意識が変わっていきました。不思議なもので、意識が変わると、同じ様に肺がん患者会を立ち上げたいと思っている人たちと出会い、メッシーさんを始め色々な方達からアドバイスを頂ける様になり、患者会設立への道が一気に開けていきました。
今は患者会の代表に就いていますが、仲間の存在は本当に大きく心強いです。一患者としても、励まされ助けられています。平々凡々に生きてきた自分が「肺がん患者」と云う立場を与えられた事で、新しい人生を歩んでいます。感謝の気持ちを忘れずに日々大切に過ごしていきたいと思います。